本 堂 ほんどう
平成28年第32世求仙文光大和尚代に落慶された。本尊様は南無釈迦牟尼仏である。前本堂は1470年に長野の立科で建立され、1590年に藤岡へと移築された。540年もの時を経て梁の腐朽が進み、大変危険な状態であることから建替えられた。内部にあった須弥壇、欄間、十六羅鑑像等の歴史ある仏具は現在の本堂にも使われ、旧本堂の天井龍図は衝立として保存された。新本堂には中島千波氏により描かれた平成の龍が天井に上げられた。
平成28年第32世求仙文光大和尚代に落慶された。本尊様は南無釈迦牟尼仏である。前本堂は1470年に長野の立科で建立され、1590年に藤岡へと移築された。540年もの時を経て梁の腐朽が進み、大変危険な状態であることから建替えられた。内部にあった須弥壇、欄間、十六羅鑑像等の歴史ある仏具は現在の本堂にも使われ、旧本堂の天井龍図は衝立として保存された。新本堂には中島千波氏により描かれた平成の龍が天井に上げられた。
桜の絵で知られる日本画家、中島千波氏が手掛けた天井龍図である。中島氏はこれまでも深川不動(東京)の150畳分の天井画「大日如来蓮池図」や名立たる神社仏閣の襖絵を手掛けてきたが、龍を描いたのは初めて。「龍といえば、墨と思っていたが、お寺から彩色を希望され、これまでにない個性的な龍にしようと思った」と中島氏は言う。一般的な龍は3本指だが、光徳寺の龍は中国の皇帝の衣服に描かれた龍のように5本指を採用。オリジナルの「平成の龍」を目指し、うろこを三角形にするなど装飾性を重視した。プラチナ箔の牙と爪、金箔と金砂子の玉、豪華で気品ある龍に仕上がった。
昭和63年第31世大活文成大和尚代に落慶された。行基菩薩の作と伝えられる「馬頭観音」が安置されている。馬と人の繋がりは深く、馬は交通手段であり、農耕の力であり、時には戦にも利用された。馬は頭がよく人の心を見抜くという。人が馬を愛し信仰の対象としたのは利口でよく働く馬への感謝と敬意があるからである。観音様の表情といえば優しいのが普通。しかし馬頭観音の表情は恐ろしい。それは魔を打ち砕く為と言われている。憤怒の形相は慈悲の心の表れなのである。
観音堂の天井には48枚の格天井に般若心経が刻まれている。昭和64年観音堂建設にあたり、当時の副住職(現住職)求仙文光和尚が書き、刻字をしたものである。求仙文光和尚は毎日書道展審査会員で群馬県刻字協会の会長を永年務めている。また、世界遺産富岡製糸場入り口の看板も当人が掘ったものである。天井の文字は朱文(陽刻)で掘られ、文字の表面には金箔が施されており、このような天井は他に類がなく大変豪華な天井である。
建立時期については不明とされているが、約350年前と思われる。山門と総門という2つの門があり、格式の高い寺であることがわかる。「高麗門」という作りであり、本寺である愛知の正眼寺は後小松天皇の祈願寺であることから、屋根には「菊の御紋」が焼かれた瓦が敷かれている。
山門の建立時期については不明であるが、明治22年、大正13年に修繕の記録があり、昭和27年の大修繕で今日の形に至っている。2階に安置されていた「十六羅漢」は、何度も盗難に遭ってしまうことから大正13年修繕の際に本堂に移されたという。平成28年新本堂落慶法要に際し木彫りの仁王様(高さ3メートル)が安置された。向かって右側が「阿像」左側が「吽像」である。
平成12年6月に落慶法要が行われ、20畳16畳20畳の3部屋、繋げると合計56畳の広々とした部屋となる檀信徒会館は、檀信徒の設斎(お浄め、食事)の場や、会議、法要控室、地域行事等に使われている。
※ 法事後の設斎時に使用料はありません。仕出し専門の業者もご案内しておりますのでご相談ください。
建立時期は不明。六道のそれぞれにあって衆生の苦しみを救う6体の地蔵菩薩である。「地獄道の檀陀 」 「餓鬼道の宝珠」「畜生道の宝印」「修羅道の持地」「人間道の除蓋障」「天道の日光」の各地蔵菩薩とする。
平成24年に建立された。お墓の供養祭祀の継承者のいない方、また事情により将来お墓を継承できない方が安心してお過ごしいただけるよう、当寺が責任をもって永代にわたりご供養しお守りする事を目的としています。宗旨・宗派は問いません。
※随時受け付けております。お気軽にご相談ください。
令和6年よりひかり墓苑として個別墓を随時建立しています。使用期間(銘板タイプ7年・墓石タイプ15年)を設け、その後は永代供養塔に合祀、若しくは5年まで使用期間を延長することが可能です。すぐに合祀ではなく数年は個別のお墓でお参りしたい方に適しています。宗旨・宗派は問いません。
※随時受け付けております。お気軽にご相談ください。
写真左:墓石タイプ 写真右:銘板タイプ
現在では犬や猫も家族として暮らしており、亡くなった時にどうしたらよいかとの相談をいただくことが多くなり、令和3年に建立された。
※移動火葬車に来ていただき火葬後、お骨を納骨いたします。その様な事があった時にはご相談ください。
「子どもが丈夫でたくましく立派に育つよう手を合わせたい」との声があること聞いた第31代文成大和尚が発案し、田中徹男氏(当時の田中石材店主)より昭和59年に寄贈される。
昭和60年8月群馬県多野郡上野村の山中ヘ日航機が墜落し、犠牲者は520名にもなった。藤岡市は上野村から降りた最初の市であり、市内の学校の体育館は運ばれたご遺体の安置所となった。当時の藤岡市内の僧侶らが自主的に読経して回るなどご遺族に寄り添った。9月に入り学校の2学期が始まったため、光徳寺でご遺体を安置することになり、日航職員が常駐して長い間ご遺体や遺留品を預かった。その縁により、昭和63年に慰霊地蔵尊が建立された。
関孝和(1637年?~1708年)は和算を世界的レベルに高めた人物であり、同時代のイギリスのニュートン、ドイツのライプニッツと共に世界三大数学者と称されている。没後新宿区の浄輪寺に葬られたが、藤岡は関孝和の生誕地であることから、偉業を称え昭和33年没後250年記念として新宿区の浄輪寺より分骨され当寺に墓所を設けた。
寺宝である「お猿様」をモチーフに建立された。(※「お猿様」のいわれについては、お猿の大祭を参照)摩訶般若波羅密多心経を載せた麼尼車を回転させるとお経を唱えたことと同じ功徳があるとされている。また、「厄除け猿の大祭」が毎年1月の成人の日付近で開催され、「願いが叶い、厄が猿(去る)」といわれて多くの人が訪れている。